5章 アインシュタインの生涯
特許局と奇跡の年
チューリッヒ連邦工科大学を無事卒業したもののアインシュタインは就職ができませんでした。
アインシュタインは大学に残って助手になりたかったのですが、興味のない授業は無関心だった態度が災いして教授陣に嫌われ採用を拒否されたのです。
アインシュタインは教職を求めて様々な大学に応募しますが、まったく相手にされませんでした。
この間、家庭教師のアルバイトなどで食いつなぎました。
これに見かねた友人グロスマンが、その父に頼みスイス連邦特許局に就職を紹介したのです。
グロスマンはチューリッヒ連邦工科大学の友人です。アインシュタンは授業に出なかったため試験前になるとグロスマンにノートを借りていました。
特許局でのアインシュタインは午前中に仕事を集中してこなし、午後は物理の思索にふけりました。
相対性理論はこの職場から生まれたのです。
アインシュタインは特許出願の趣味もありました。
これは、特許局の職員時代に身に付いたのかもしれません。
物理学者になりたいアインシュタンは、たびたび論文を書いては投稿しました。
1905年には相対性理論、光量子仮説、分子論に関する論文を6編提出しました。
これらは後の物理学の方向を大きく変えるインパクトを持った内容です。
そのような論文がわずか一年の間に提出されたことから、1905年を奇跡の年と呼びます。
後年、アインシュタンはシラードに「特許局で働いていたときが生涯で最高の時期でした」と語っています。(アインシュタインと天才たち)
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