5章 アインシュタインの生涯
アインシュタインの年表
1875年 | アインシュタインの最初の妻ミレーバが生まれる(12月19日) |
1876年 | アインシュタインの二番目の妻エルザが生まれる(1月18日) |
1879年 | ドイツのウルム市で生まれる。(3月14日) |
1880年 | 一家はミュンヘンに転居 |
1894年 | ギムナジウムに在学中のアインシュタインをミュンヘンに残し、一家はイタリアのミラノ、すぐ後にパビアに転居。 |
1895年 | アインシュタインはギムナジウムを中退し、パビアの家族のもとへ転居。チューリッヒ連邦工科大学(スイス)を受験し不合格。アーラウ(スイス)の州立学校に一年通う事を条件に、来年度の入学資格を得る事になった。 |
1896年 | アーラウの州立学校を卒業し、チューリッヒ連邦工科大学入学。最初の妻ミレーバ・マリッチと出会う。 |
1900年 | チューリッヒ連邦工科大学卒業。大学の助手に採用されず臨時の教員や家庭教師のアルバイトで生活を維持する。 |
1901年 | スイス国籍を取得。 |
1902年 | ミレーバが長女リーゼル出産(1月27日)友人とオリンピア・アカデミーを設立する。友人のマルセル・グロスマンの父親の紹介で、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職。父親ヘルマンが死去。 |
1903年 | ミレーバと結婚(1月6日)。 |
1904年 | 長男ハンス誕生。 |
1905年 | 「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する論文を立て続けに発表。後年、1905年は「奇跡の年」として呼ばれるようになる。 |
1906年 | スイス特許庁で2級技術専門職へ昇進。 |
1907年 | E=mc?を発表。生涯最良の名案「等価原理」を思いつく。 |
1909年 | 特許局退職。チューリッヒ大学の助教授就任。 |
1910年 | プラハ大学の教授就任。次男エドゥアルト誕生。 |
1911年 | 第一回ソルベイ会議に参加 |
1912年 | チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任。 |
1913年 | プロシャ・アカデミーの会員となり、ベルリンへ転居。ミレーバは子供と共にチューリッヒに戻り、別居生活が始まる。 |
1914年 | ベルリン大学教授就任 |
1916年 | 一般相対性理論発表。 |
1917年 | 肝臓病、黄疸を発症。数年間の間、いとこのエルザが看病にあたる。 |
1919年 | アーサー・エディントンによって、太陽の重力場で光が曲がることが皆既日食中に観測された。これにより一般相対性理論の正しさが証明された。ミレーバと離婚(2月)、エルザと再婚(6月)。 |
1920年 | 母親死去 |
1921年 | ヘブライ大学の建設資金を集めるためアメリカ、イギリスを訪問。 |
1922年 | フランス訪問(3月)、日本へ向け「北野丸」に乗船(10月)し11月17日に訪日。乗船中の11月9日にノーベル物理学賞受賞の知らせを受ける |
1923年 | 日本を出国し、エルサレム、スペインを訪問。 |
1925年 | インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をヒントとして、ボース・アインシュタイン凝縮を予言する論文を発表。 |
1929年 | ベルギー王家を訪問。 |
1930年 | ベルリン郊外に別荘を建てる。 |
1932年 | アメリカへ出発。これを機に、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。 |
1933年 | プリンストン高等学術研究所の教授に就任。プロシャ・アカデミー辞任。ナチスはアインシュタインを国家反逆者とした。 |
1935年 | ポドリスキー、ローゼンと共にEPRパラドックスを発表。 |
1936年 | 「アインシュタイン・ローゼン橋」を発表。エルザ(二番目の妻)が死去。 |
1939年 | フランクリン・ルーズベルト大統領に宛て、原子力の軍事利用の可能性を示唆した手紙に署名。 |
1940年 | アメリカ国籍を取得。 |
1943年 | アメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。 |
1945年 | 第二次世界大戦終結。 |
1946年 | 国連総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送る。 |
1948年 | イスラエル建国。最初の妻ミレーバ死去(8月4日)。 |
1952年 | イスラエル政府からの第2代大統領への就任を辞退。 |
1955年 | ラッセル=アインシュタイン宣言に署名(4月11日)、腹部動脈瘤の破裂(4月13日)。プリンストン病院に入院(4月15日)し、死去(4月18日)ラッセル=アインシュタイン宣言発表(7月9日) |
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